ふるはし ひろのしん
なぜこの人がすごいのか?
この人は戦後、日本の人たちは彼の活躍によって元気付けられた。
水泳界だけでなく、日本の復興に大きく貢献した。
残念ながら、戦後すぐの日本は、IOC、FINAに、加盟できずにいたので
全盛期に五輪出場できず、ようやく出場できた五輪ではメダルをとることができなかった。
しかし彼の作った世界記録は33回。
すごい人である。
では彼の生い立ちから、活躍しているところをご紹介します。
写真が白黒なので少々見づらいかと思います。ご了承ください。
生年月日1928(昭和3)年9月16日
1928(昭和3)年9月16日 静岡県浜名郡雄踏町に生まれ、雄踏小学枚、浜松第二中学
1951(昭和26)年3月 日本大学法文学部政治経済学科を卒業、大同毛織株式会社に入社。
1966(昭和41)年に同社を退社して日本大学専任講師となり、助教授。
1975(昭和50)年、同大学文理学部教授に就任。
1985(昭和60)年4月1日、日本水泳連盟の会長。
1990(平成2)年5月からは日本オリンピック委員会会長として現在に至る。
昭和21年7月16日 東京・碑文谷の日大プールで行なわれた 日・立・名三大学定期戦で、デビュー。 |
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昭和21年7月16日 東京・碑文谷の日大プールで行なわれた 日・立・名三大学定期戦で、 400Mと800Mを制覇。 |
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昭和21年 伊東合宿。 戦後食糧難の最中にご飯が食べられる と言う事でおおはしゃぎの様子。 この年、400M自由形 4分46秒は世界最高記録 |
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昭和22年 戦後初の日本選手権。 400M自由形・4分38秒4の 世界新記録 |
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昭和22年 日明立大学大会で 優勝カップをもらう古橋 |
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昭和22年 日明立大学大会の会場 満員の観衆。 |
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昭和23年 日本選手権2日目 1500M自由形 1位古橋と2位橋爪 |
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昭和23年 日本選手権2日目 1500M自由形 1位古橋と2位橋爪 プールから上がるところ。 ちなみに古橋18分37秒0。 橋爪18分37秒8 |
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昭和23年 日本学生選手権で優勝した日大チーム。 左から古橋、浜口、真木、橋爪 |
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昭和24年7月 日本選手権 準決勝から神宮プールで行なわれた。 観客は超満員。 プロ野球より入ったとか…。 |
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昭和24年7月 日本選手権 米軍マッカート少尉に 祝福される古橋。 |
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昭和24年7月 日本選手権のあと 全米選手権の 遠征メンバーに選ばれる。 左から古橋、浜口、橋爪、村山、田中、丸山 |
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全米選手権ほか遠征が決定した後 日大の寮で談笑する 二人。 左から橋爪、古橋 |
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全米選手権に出発する選手。 | |
全米選手権の会場となった 戦前のロス五輪のオリンピックプール。 |
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昭和24年8月 全米選手権。 400M自由形で 8人中4人が日本人。 |
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昭和24年8月 全米選手権。 1500M自由形 2位橋爪と1位古橋。 |
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昭和24年8月 全米選手権。 1500M自由形 1〜3位を全て日本人が占めた。 左から2位橋爪、1位古橋、3位田中 |
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昭和24年8月 全米選手権の会場となった ロサンゼルス・オリンピックプール 入場の長い行列。 入場券にはプレミアムがついた。 |
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全米選手権から帰国後、 大会の様子が掲載された 雑誌「LIFE」も見る選手たち。 左から、 浜口、古橋、橋爪、松本団長、村上監督、村山 |
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昭和24年 日大ー全東海戦で800Mで 公認世界記録を樹立!!。 この年の国際水連(FINA)に日本が復帰した。 |
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昭和25年 ブラジル招待試合。 最前列左から 松沢理事、遊佐監督、村山、古橋、橋爪、浜口 |
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昭和25年 ブラジル招待試合後 サンフランシスコに渡った日本チーム。 左から 松沢理事、遊佐監督、古橋、橋爪、浜口、村山、 |
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昭和25年8月4日。 日本で日米対抗戦が行なわれ 古橋400M・800Mで世界新記録!!。 左から 古橋、キッパス監督、マックレーン。 |
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同じく 昭和25年8月4日。 日本で日米対抗戦が行なわれ 200Mで優勝の古橋、2位のマックレーン |
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昭和27年 ヘルシンキ五輪 400M自由形で1位通過の 古橋…。 結局古橋は、ようやく出場できた五輪で メダルを取ることはできなかった…。 |
古橋は小さいころから水泳に優れた才能を示し、12歳の小学6年で100、200m自由形に学童新記録を打ち立てた。戦争の激化で中学時代は水泳との縁が切れたが、日本大学に進んだ戦後の混乱期に、その才能が一気に開花!!。
1947(昭和22)年
公認記録にはならなかったものの、400m自由形に世界新記録を樹立。
1948(昭和23)年
400、1500mの自由形ではロンドン・オリンピック大会の優勝記録をはるかに上拘る世界新記録をマークして、日本水泳の力強い復活と存在を全世界にアピールした。
1949(昭和24)年
全米水上選手権の1500mでは、信じられない驚異的な世界新記録を樹立した。アメリカのマスコミは畏敬の念を込め「フジヤマのトビウオ」のニックネームを贈り、活躍をたたえた。
1957(昭和32)年からの日本水泳連盟の常務理事、
1977(昭和52)年から1984(昭和59)年まで副会長、そして会長。
また、日本体育協会理事、日本オリンピック委員会理事などの要職を務める。
1990(平成2)年5月からは日本オリンピック委員会の会長
1994(平成6)年の広島アジア競技大会組織委員会会長、
1995(平成7)年ユニバーシアード福岡大会組織委員会副会長、
1998(平成10)年の長野オリンピック冬季大会組織委員会副会長
国外
1968(昭和43)年国際水泳連盟の理事
1976(昭和51)年には副会長に就任、アジア水泳連盟の会長。